米田知子 「暗なきところで逢えば」

米田友子「暗なきところで逢えば」
http://syabi.com/upload/2/2001/yoneda.pdf
原美術館で2008年に行って以来の纏まった展示。

9つのゾーンに分かれている。それぞれのゾーンは独立し暗い廊下を巡りながら独房を覗くような趣。

「Scene」「見えるものと見えないもののあいだ」「パラレル・ライフ:ゾルゲを中心とする国際諜報団密会場所」の三つは原美術館と共通。
(展示作品の異同はある)
「Japanese House」「Kimusa」「サハリン島」「積雲」「氷晶」映像作品の「暗なきところで逢えば」はその後の制作。

これらの作品には断絶が感じられた。
震災以前と以後。
「Japanese House」と「Kimusa」までは震災以前の制作
サハリン島」以降は震災後の制作。

震災以前の作品は非常に端正な印象の、コンセプトが明快な、いや、コンセプトに則って作られた故の端正な印象なのだろう。
それ故、逆にキャプションをどう提示するか、キャプションなしで大きく意味合いが変わるものでもあった。
(展示でどのようにそれを提示するかで印象も左右される 今回は個々の写真についての情報は入り口で配布される作品リストのみ)
(必ずしもコンセプト依存と言う事ではない  写真として魅力がある)
ドキュメンタリーとArtの境界に位置している。

基本的には現在の写真→過去にその場所がどのような場所であったかの提示→意味合いの変容と言うプロセスを踏んでいた。
何気ない光景、その来歴、何気なく見える事、見る事への問いかけの喚起。歴史。
撮影時→過去→鑑賞者の現在 時制は撮影時から過去に跳ね返り鑑賞者の現在に向かう。

この展示を見る前に念頭にあったのはちょうど前年に都写美であった畠山直哉さんの展示(気仙川)だった。
これも構造は似てはいる。
何気ない光景、それが失われた事実の提示、何気ない風景の意味の変容。
けれど時間軸が異なる。
撮影時→撮影時以後の事件→鑑賞者の現在
時制は跳ね返る事なく鑑賞者の現在に向かって投げられる。

実は今度の展示も過去の方法論を踏襲し、さらに端正に、ある意味距離を置いた収まったものなのかと思っていた。
或いはヴァナキュラーな写真でよりコンセプトを突き詰めたものになるかと。

けれど「サハリン島」はむしろ「Scene」に戻ったような、いや、それよりもなお「普通の写真」に近いものになっていた。
画面の中に人や判りやすいモチーフを配置している。
そのためか、アノニマスなどこか漂白された光景でなく、具体的な、鑑賞者にとって制作者や対象が時間的にも近いものに感じられた。

そして出口付近の「積雲」のコーナーは打って変わって壁面も床も真っ白で照明も明るい。
こちらは正に「現在進行形」の、ヨーロッパでもアジアでもない日本の事象だ。
終戦記念日」の靖国、皇居の新年参賀、闇の飯舘村、広島平和式典・・

撮影時→過去→鑑賞者の現在と言う流れは自ずからあるベクトルを示していたが
過去をあらかじめ内包しているとはいえ、ここで作者が提示した「現在」はベクトルを示しはしない。
ベクトルの、歴史の喪失を暗示し、そして新たなベクトルを探しているように思える。

さて、作者はどこへ行くのだろう。