記憶の喪失 或いは

墓参を終え、青山一丁目で降りる。
父がそばの病院に入院していた頃は毎日通ったが、この駅で降りるのは何年ぶりだろうか。
確か六本木ヒルズがオープンした頃だ。
青山霊園よりの一角には戦後の引揚者住宅の名残があったが、今ではどこだったか判らなくなっていた。
青山一丁目公園の樹々も少し大きくなったようだ。

The Tokyo Art Book Fairに行く前に、会場を横目に見ながら、外苑の中心に足を向ける。

いつもの事なのだろうか、何かのイベントがあるのだろうか、
テントが並び大勢の人が行き交い、野球場からの声援が聴こえる。

もともとこの場所は明治神宮の内苑に対する外苑として旧青山練兵場が献納され整備された空間だ。
そこが日本のスポーツの聖地になっている。
練兵場から競技場。
そして現在も宗教法人明治神宮の所有だ。

その中心にある建物の窓が無く、丸いドームを戴いたシルエットは墳墓を連想させる。
入り口には五輪招致を祝う垂れ幕が下がっている。

正式名称 聖徳記念絵画館大正8年 1919年着工 大正15年 1926年竣工

館内は500円の入館料にもかかわらず意外にも賑わっていた。


東西と時期を分けて日本画、洋画がきっちりと半分ずつ。
奉納したのは貴族、自治体、財閥、各種団体。
作者は今も名が残る画家もいれば今では忘れられた画家もいる。

竣工は大正15年だが、当初収められた絵画は5点ほどで、全ての壁面が埋まったのは昭和11年 1936年だったようだ。
建築プランは絵のサイズと枚数を予め決めた上で決められている。
そもそも枚数、つまり描かれるべき明治天皇の事跡の数を決めたのは奉賛会なのか。
そして描かれるべき事跡(画題)を決めたのも奉賛会なのか。
奉納者を決めたのは誰なのか。
そして画題は奉納者が選べたのか、誰かが割り振ったのか。
奉納者、作家、画題、奉納日、そして実際の描写を眺めると様々な事情や思惑も見えてくるようだ。

そして最上級の「芸術」たる「歴史画」
その歴史画を描く画家の思惑
歴史画を最上とする価値観を受容した、
或いはそのような受容をした上になされた日本の「近代」といった諸々も。



7年後にこの建物の背景に覆いかぶさるように建てられるであろう競技場が歓声に沸く時、
これらの展示は訪問者にどのように受け止められるのだろうか。





因みに 現在の国会議事堂は 大正9年 1920年着工 昭和11年 1936年竣工
現在の東京国立博物館本館は 昭和7年 1932年着工 昭和12年 1937年竣工
参考 新国立競技場建設を巡って、槙文彦氏による論考「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考えてみる」がある。